「迷惑かけてごめんね!」
この言葉、日本人なら誰でも一度は口にしたことがあるのではないでしょうか。
少し前までは、子どもが「親には迷惑かけられないから…」と悪い道にそれそうになった時に思いとどまるフレーズだったり、親が「人様だけには迷惑かけないで!」と子どもを諭す言葉として聞いていた気がします。
ところが最近は、それがなぜか逆転しているように感じませんか?親が子に気を遣う言葉として、よく耳にするようになった気がするのです。
なぜ親は、自分の子どもに「迷惑をかけたくない」と言い始めたのでしょうか?
ふと気になったのは、この「迷惑をかける」という表現自体が、実は日本語特有の言い回しなのかもしれないということです。

「迷惑」は「かける」もの?「かけられる」もの?
文法的に見ると「迷惑を相手にかける」で、自分が主体です。でも不思議なことに、心理的には「相手に迷惑がかかってしまう」という、どこか受け身的な感覚も含んでいるような気がしませんか?
この微妙なニュアンスこそが、日本人の心の在り方を表しているのかもしれません。

世界から見た日本人の「気遣い」
英語圏では「I’m sorry to bother you」や「I don’t want to impose」という表現がありますが、日本語の「迷惑をかける」ほど頻繁に使われることは少ないようです。
日本人は事前に「迷惑かけるかも」と心配し、欧米では実際に問題が起きてから「Sorry for the trouble」と謝る。この違いは、それぞれの文化の根っこにある価値観の違いを映し出しています。
人は生まれてくるのも一人、旅立つのも一人
でも、ここで根本的なことを考えてみませんか?
人は生まれてくるのも一人、旅立つのも一人。しかしそれ以外の間は、ほとんどの場合、人と何らかの関わり合いを持ちながら生きるものです。
子どもの頃は親に支えられ、学校では先生や友達と学び合い、働く時は同僚と協力し、年を重ねれば再び誰かに支えられる。これを「迷惑をかける」と表現することに、少し違和感を覚えませんか?
これは迷惑なんかじゃない。これこそが、人間として生きるということの本質なのかもしれません。

優しさが巡る社会
その代わり、元気な成人の間は、今度は自分が誰かの役に立つ番です。子育てを手伝ったり、仕事で社会に貢献したり、困っている人に手を差し伸べたり。
結局のところ、これは美しい循環なのではないでしょうか。
「もちつもたれつ」
この言葉も、とても日本的な感覚ですね。支え合うことを当たり前だと感じる心。一方的な関係ではなく、お互いに持ちつ持たれつの関係性。
「迷惑」を超えた新しい言葉を
「迷惑をかける」という言葉の向こう側には、相手を思いやる優しい心があります。でも、その言葉自体にネガティブなニュアンスが含まれているせいで、人と関わることに罪悪感を感じてしまうのかもしれません。
本当は、もっと別の言葉があればいいのに。
「お互いさま」「つながり合う」「関わり合う」「支え合う」…
人と人との関係性を、もっと自然で美しいものとして表現できる言葉があれば、私たちはもっと楽に生きられるのではないでしょうか。

生きることは関わり合うこと
人は一人では生きていけない。それは弱さではなく、人間の本質です。生まれてから旅立つまでの間、私たちは常に誰かとの関わりの中で生きています。
生きることは関わり合うこと。だからこそ人は、喜んだり、悲しんだり、怒ったり、愛したり…そんな様々な感情を味わいながら生きているのかもしれません。一人では感じることのできない豊かな感情の世界が、人との関わりの中にあるのですね。
だとしたら、それを「迷惑」と呼ぶのではなく、「生きることの本来の姿」と考えてみてはどうでしょう。一人ひとりが持っている力を出し合い、足りないところを補い合いながら、みんなでこの人生という舞台を歩んでいく。
そう考えると、「迷惑かけてごめんね」という言葉も、「一緒に生きてくれてありがとう」という感謝の気持ちに変わっていくのかもしれませんね。


