歳をとるということは、子供に返っていくこと

brown bear plush toy on brown textile

先日、夕方の皆が夕飯の支度に忙しいであろう混雑時間に、私も大急ぎで夕飯の買い物をしていた。

駐車場に出たら、高齢の女性が、カートに杖を引っかけてウロウロとあっちへこっちへ、ノタノタとゆらゆらと歩いている。

それを見た私は、すぐに「車の駐車場所がわからなくなったのだろう」と察した。

そのおばあちゃんが言う「青い車、ナンバー888」を一緒に探すことにした。

とはいえ、おばあちゃんはカートを支えにして歩くほど足元はおぼつかない様子。

とりあえず動かないように伝え、私は走った。

見つからない…。

赤の8888は見つけた。

ひょっとしたら記憶が曖昧なのか?

ボケてしまっているのか?

様々なことが頭をよぎったが、もう一度しっかり話を聞いてみようと声をかけた。

そんな様子を見ていた、私と同じくおせっかいな若い女性が「どうしましたか?」と声をかけてくれた。

おばあちゃんは、娘さんに乗せてきてもらってショッピングモールに来たこと、この辺りに停めたはずの車が見つからないことなどを話してくれた。

あまり新しい情報はわからないまま、とりあえず車を探すのをやめて、娘さんを探すことにした。

きっと、娘さんも焦っていることだろう。

「ここで待っててと言ったのに」とイライラしているだろうなと想像した。

サービスカウンターに行くのは、正解だった。

アナウンスをかけようとお名前の確認をしているとき、娘さんもまた同じようにサービスカウンター経由で私たちを見つけた。

娘さんの申し訳なさそうな顔。

そしてやっぱり、

「どうして動いたの? ここで待っててと言ったでしょう!」

と言う。

おばあちゃんはそもそも出口を間違えていたため、車に出会える可能性はかなり少なかった。

私はお互いの気持ちが痛いほど伝わり、

「私も停めたところ、時々忘れちゃうんです。こんなことはなんでもないことですよ」

と、口から出ていた。


子供がショッピングモールで迷子になるのと変わらない出来事。

私は本当にそう思っている。

ふと思った。

もし自分があのおばあちゃんの立場だったら、どうしてほしいだろう?

きっと、責められたくない。

心配させたことは申し訳ないけれど、「あら、こっちでしたか!」と笑って済ませてほしい。

そして、もし自分が娘さんの立場だったら?

毎日毎日、目を離せない緊張の中で、愛しているからこそ、守りたいからこそ、つい「どうして!」と言ってしまう自分を許してほしい。

高齢者は「違う世界の人」ではない。

私たちの10年後、20年後、30年後の姿だ。

支える側も、支えられる側も、どちらもいつか自分が立つ場所。

だから今、どう生きるか、どう人と接するかが、未来の自分への、そして未来の誰かへの贈り物になる。


かつてできた当たり前のことが、少しずつ簡単ではなくなり、努力が必要になったり、誰かの助けを借りてしかできなくなっていく。

望むか望まないか?

最後までピンピンと一人で生きていられる人は、奇跡に等しい。

「親の老いは、やがて行く自分の未来を見ているお手本」と言う人もいる。

高齢化社会の日本。

red wooden cross on gray concrete pathway between green trees during daytime

お年寄りと共に生きるためには、終活など事前準備の大切さは語られるが、支える私たちも、やがて必ず到達する未来として、そのありのままを受け入れるための「何か」をもっと考えていくことが、優しい社会、日本の社会なのではないかと感じたのだった。

私一人ではなく、見かねて駆けつけてくれた若い女性が、私には希望に見えた。


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